伊豆歩倶楽部

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紀行

私の沿岸回想録

放浪紳士:清水政悦

(1)
一人旅の便りです。
私の沿岸歩きの始まりは、2003年5月日本ウォーキング協会主催の「下北半島一周350キロウォーク」です。青森県むつ市田名部町から、野辺地町まで12日間64名の皆さんと一緒に、楽しく完歩しました。その後、一人旅で歩くようになりました。

旅先では季節、天気と自然もまた歩く私の糧となりました。日本海沿岸は石川県金沢市を振出しに、能登半島から(富山県氷見市〜新潟県寺泊町までは、中越地震のため未完)山形県は全域。秋田県は男鹿半島を回る全線。青森県は津軽半島の竜飛岬、夏泊半島、下北半島をかけて全域。そして太平洋沿岸に入り、青森県の三沢市、八戸市と岩手県も全域、大船渡りまで歩きました。

(2)
東北地方の沿岸線は、温泉に恵まれ、文人墨客が多く訪ねていて、その足跡が残っています。
(松尾芭蕉 1644〜1694年 奥洲、北陸を回る)
(良寛   1808〜1831年 禅僧、歌人として諸国遊歴)
(菅井眞澄 1770〜1829年 越後、東北、蝦夷まで)
(伊能忠敬 1795〜1818年 天文学を学び日本全国の地図を作成
此の人達が各地に残した足跡を思う時、ますます歩くことに引きこまれます。私の歩いた沿岸で、心に残る出来事を列記いたします。
・禄剛崎灯台:珠洲市狼煙町(能登半島東北端)。明治16年フランス人が設計、日清戦争で中断、旧陸軍の手によって建立された白亜の灯台(現在無人)。登上口門の上に菊の紋章がかかげてある。此処は日本でただ一つの灯台であるという。
・鼠ケ関跡:山形県温海町に残る、庄内藩の念珠関跡。文治5年奥州合戦の古戦場である。
芭蕉は「象潟や雨に西施が合歓の花」と詠む。芭蕉が中国の美女、西施の憂れしげな半眼のおもかげをいだき、此処の関所を越えて越後に向かった所。美女の半眼で送られる芭蕉の気持になって、大きな句碑を見るのも興味深い。
・吹浦遺跡:山形県遊佐町。十六羅漢吹浦田楽と見所多数。元禄2年6月15日、芭蕉が酒田から象潟に向う途中、ここで豪雨のため足止めとなり、何日も泊まることになった。私も雨のためここに泊まることになりました。「6月15日」私の誕生日です。何の関係もないことですが、一人旅は偶然が心に残ります。
「野ざらしを心の雨のくむ身かな」芭蕉

(3)
・赤神神社:秋田県男鹿半島門前に、五社堂ありここに暴れる五匹の鬼を鎮めるため、一夜で100段の石段を積む。鬼の要望通り村一番の娘を生贄に差し出すと村人は約束した。99段目で夜明けとなったので鬼は退散した。この鬼がナマハゲとなり、海・山に嵐を呼びます。
私もお堂を借りて泊まった。夜半に大雨となり近くの尼寺に逃げ込みました。雨はますます強くなり、五匹の鬼がヤキモチをやいて襲って来たのかも知れない。雨のため管江眞澄の歌碑を訪れることが出来ませんでした。残念でした。
・深浦弁天島:青森県深浦町 五能線では有名な所。北前船の風待港で人々の出入りが多く賑わい、港も栄えたそうです。

  

今日は天気も良く、私は夕方露天風呂(混浴)に入り、弁天島の海岸でビールを飲んで寝ました。忘れもしない23時30分頃、天と地が逆になったような突風が吹き、何もかんも海に吹き飛ばされました。命からがらやっとのことで逃げて、駅前の電話ボックスで朝までご厄介になりました。享和元年(1801年)菅原真澄もあの露天風呂に入り、大時化にあったと記されています。ひやー!

(4)
・狸塚 青森県五所川原金木、太宰治の生まれた斜陽館があります。津軽鉄道の中間で、田圃と林檎畑の中にある小さな町です。町に入ると街中、津軽三味線の音が響いていました。駅の上階のレストランに入り親切なマスターと話がはずみ、飲みすぎました。朝、暗いうちに歩き出すと昨夜一緒に飲んだ女性が歩いていました。県道339号線に出ようと、暗い道をその人の後を歩きました。1時間ほど歩いたと思った頃、ある駅の前に来ました。先にスタートした駅に舞い戻ったのです。ナンダコリャー。近くにタヌキ塚がありました。

・十三湖の熊 青森県龍飛岬は以前に訪ねているので、十三湖から国道12号線を蟹田に出ようと歩き出しました。5、6人の猟師たちがたき火をしていたので「警察でねので、この先通行止めは出来ねども、熊が出ているからアブネヨ」。此のあたりはどの道を通っても同じ状況です。親切に注意されたので12号線を断念して、箕用師峠を回り龍飛に出るしか無しガックリ。この峠はつづら折で10qも登る。登るほどに日本海が下に落ちて行くような景色になって、雲が近づいてきます。昭和の中頃まではこの峠は無く、海に出て舟で越えていたとか。この峠を悔やむか、熊を恨むか。泣き言はよそう。

(5)
・太宰治の本当の目的:昭和19年、太宰治〔36歳〕は「津軽」執筆のため帰郷した。六歳か七歳の頃、女中の越野たけから本を読むことを教えられた。母と思っていた「たけ」に会いたくて、その人の顔が忘れられず西海岸の最北端の港、小泊に来たのだ。砂丘の上に国民学校がある。今日はその学校の運動会でした。ようやく探して行き「修治だ」と帽子を取った。たけは「あらあ」(津軽弁から)「ここさお座りなさいませ」とそけだけだった。
記念碑があるきれいな小さな港だ。
・夏泊半島:津軽半島と下北半島の中間にあるこの半島の岬に橋を渡る大島がある。夏季には磯遊びで賑わう所らしい。この半島に着いたのは、夕方の四時頃でした。三軒の屋台があり、その中の一軒は大きな水槽にイカを泳がせて、客に釣らせていた。

初夏なのに寒かった。店に入りメバルの焼き魚で熱燗を飲みました。酒の勢いをかりて、泊まりは無人のレストランで寝袋で。夜半から暴風雨となり、朝になってもやみませんでした。ハマナスラインを這いずるように歩き、20q弱を7時間もかけて、松島につきました。アメフリラインに名前を変えてもらいたし。

(6)
・寒立馬(かんだちめ):下北半島の大間尻屋崎は最南端。時化が多く「船の墓場」と恐れられている所です。明治9年、南部藩は馬を放牧した。やがて廃藩となりこの馬たちは取り残された。風雨積雪に耐え強くたくましく今に至っている。我々の行く手に仔馬が倒れ、母馬が案じて立っていた。その時右手の山から、十数等の馬が現れ、ボス馬の奇声で我々は取り囲まれた。「静かに動くな!!」と指示があり、棒立ちになりました。すると先ほどの仔馬が立ち上がり歩き出したのです。同時にボス馬たちも、ゆっくり山に帰って行きました。馬が去ると背筋に冷たい汗が流れていた。
・一週間100運動:下北郡六ヶ所村泊とは国と電力業界が進める計画の石油備蓄基地問題と、日本天然ウラン問題でさわがれている所です。この問題とは関係ないが、この地域では村を挙げて健康管理に力を入れている。教育長の挨拶の中で、この村では「一週間100運動」を実施していると述べました。つまり60歳の人であれば(100−60)÷7=5.7。つまり1日5.7qを1週間必ずウォークするということである。

・吉里吉里(キリキリ):岩手県上閉伊郡大槌町にあり、井上ひさしの「吉里吉里人」で一躍有名となったとか。私は朝食の弁当を近くのコンビニで買いました。レジの女性の名札を見てビックリ。「政 悦子」と書いてあるではないか。読み方を訪ねると「マツリ エツコ」。ちなみに私の名前は「政悦(マサエツ)」です。吉里吉里の駅で弁当を食べることにしました。古い建物です。設立昭和12年春とある。こりまた2度ビックリ。私の生まれた年も同じ、月も大差ない。古い大きな貼紙が4〜5枚あり拝見すると、昔この地に紀伊国屋文左衛門に並ぶ豪商前川善兵衛(元の名を清水上野介富英)のことが記してありました。前川は回船問屋で、かって江戸や下田などに取引を行った。寛保元年、帯刀を許可されてこの地を三代にわたり開拓に努力したとある。これで三度ビックリ。この人物も清水であったのか・・・。弁当も食べずに古い貼紙を読み切った。吉里吉里の由来は、浜辺を歩くとキリキリと鳴くことからきた。私は、キリキリ舞をさせられました。

(7)
・ボンオムゲロ イツパヒヤクエンダ(これは日本語です)。岩手県普代村から、北山崎に登る峠は、長くきつい。北山崎展望台から見る大断崖は壮絶で太平洋は広く雲一つ無い。空と海とが一体となっていました。私の心身は疲労困憊していました。
出店が軒を並べて名産品を売っています。ワカメ・コンブ・干魚・貝などだ。これらの中に古い松の木を割ったものを小束にして売っている、おばあちゃんがいました。「これどうして食べるの」と私は尋ねました。おばあちゃんは「(コレクワモノデネヨ ホトケノオクレムゲサタクノサ)これ食う物では無いよ。仏の送り迎えに燃やすのさ。(ココデハ ボンニ コノフルマツヲ ミナタクノサ)ここでは、お盆にこの古松を皆燃やすのさ。(オメサマモ エサカッテ ムゲロ イッパ ヒャクエンダ)お前さんも家に買っていって、お盆を迎えなさい。一束百円だ」。

おばあちゃんと話していて、お盆が近づいて来たことを思い出したのです。そろそろ帰って仏壇を掃除して、お盆を迎えようか。

(8)
感情は無くすな、勘定はもらうよ。釜石から夜行バスで帰ろうと思い、腹ごしらえしようと、うどん屋へ入りました。
店内は薄暗く白髪の親父さんが一人座っていました。
「何するかね。今夜はうどんしかねいよ」。店には客はいない。
「天ぷんうどん」と言うと
「天ぷらはねー」。
「出来るもんでえーヨ。ビール1本下さいね」。と言うと、「あー」持ってきました。イカの塩辛付。
「お客さん歩いているのかね。歩きは身体にいいよね。俺も毎日少しずつ歩いているんだ。ボケたくないからね。自然を歩いていれば薬飲んでいるのと同じだと医者は言ってたよ。胃や血圧の調子もいいしね。ボケると人の感情が無くなるんだよ!!」。
「おやじさん勘定幾らだい」。
「この勘定はもらうヨ!」。
太平洋沿岸と岩手県と宮城県の県境の大船渡市まで歩いてきました。今後は踏破していない、富山県の氷見市から新潟県寺泊町までの間を結びたいと思っています。しかしこれも、季節や天気により出だしが鈍ります。いつまで続けられるのか?無理しない、欲張らないで、自分のスポーツとして、取り入れていきたいと思います。過日、東京老人総合研究所の発表を新聞で読みましたが、「旅する人は認知症になりにくい」そうです。交通手段や宿、観光地、連絡道路等で、脳を刺激して活性化させると・・・。
あまり深く考えず歩き続ける。鎌田寛は「いいかげんがいい」と書いています。私は基本的にこんな事を思って行動します。

「私の歩き方五ケ条」を作りました
1.昔の道をあるきたい
1.急がずゆっくり歩きたい
1.引き返す勇気を持ちたい
1.身体に無理せず歩きたい
1.歩く今を楽しみたい
まずは自分の足に感謝して、歩けるうちは、楽しく浮浪雲のように、自由に歩かせてもらいたいのです。自分勝手なことを書きつられました。
いつまでも皆さんと歩けることを喜んでいます。

           

2008.11.28   清水 政悦

*事務局より

清水政悦さんは、未完歩でありました石川県和倉温泉から新潟県新潟市間を2009年7月1日和倉温泉から歩き始めまして、7月21日に新潟県に19日間かけて完歩しました。これで清水さんは、石川県、富山県、新潟県、山形県、秋田県、青森県、岩手県の7県の日本海沿岸と太平洋沿岸を完歩しました。
『清水政悦さんおめでとう!!』